2014年10月1日

如何にして教材に語らせるか

教えてはならぬ

授業は生徒に問題を解かせて、それを解説することで完結してはならない。人に何かを教えたければ、教えないのが一番である。説明などというものは、聞いているようで実は聞かれておらず、理解しているようで(現にしてみると「うんうん」と頷いてみたり、「はい」と返事をする生徒がどれほど多いことか!)、実は何の実にもなっていないというのが実際のところ。昔から「習うより慣れろ」やPractice makes perfect.、またまたCustom makes all things easy.などと言うではないか。

教科書に出てくる事項を一つ一つ「ていねいに」解説する授業。しかし、問うてみよ。事実として、それが「ていねい」なのかと。事前にもっと準備をしておけば、よりていねいな授業構成が考えられたのではないか、と。解説をすれば、生徒が分かると思ったら大間違いであって、解説したら生徒は眠くなるというのが真実である。生徒に練習をさせずに、講話を50分聞かせたら、生徒はぐっすりとお休みになる。教師は自分の語り方に落ち度があるのかと悩むことになるが、そもそも思想が間違っているのだから仕方ない。教師が考えるべきは、どうしたら教えたい内容を教えずに伝授できるだろうかということである。毎日のルーティーンワークを見直すべきである。別に生徒たちを面白がらせる必要があるとは思わない。何か面白いことをやって興味を引こうとする、などというのは本筋から外れた行為であって、毎回するようなことではない。

教えない、をどう作るか

最近の手法としてディベートやディスカッション、探究型学習や調べ学習、グループ学習などがある。教えたい内容を直接的に教えずに、生徒たちに調べさせて、議論させて、まとめさせて、発表させるという手法である。生徒たちは知識豊富な教師から説教(講話)をいただく代わりに、横の糸よろしくクラスメイトと話し合う。これは別に英語という教科に限った話ではなく、今の教育界を支配しているイデオロギーである。

教材が語る教材

私はこのはやりの手法に否定的ではないが、私自身が追い求めたいのは教材論。どのような教材を作るかで、どのように生徒が動くかが決まる。教材の良し悪しによって、授業構成が変わり、生徒たちに身につく学力には違いが生じる。私は教師は出来る限り生徒に教えるべきではない、と考えている。私は、教師が教える代わりに、教材自体に語らせたい。教材が生徒に語りかける・・・そのような教材を追い求めている。

具体的に言うと、教材はひとつの単元(例えば、助動詞canが「~できる」という意味で使用されるとき)は5分程度で終わるように作成し、それしか含めいないように作成されるべきであると考える。よくある問題集は左ページに1ページ分の解説が載っており、複数の文法事項が1,2,3という具体にいくらか小分けされて列挙されている。右ページはそれに基づく練習問題が用意されており、和訳や穴埋めや並べ替え問題など問題形式はバラエティーに富んでいる。私はまず、左ページの複数の文法事項を一挙に解説してあるのは教材としては不親切であると考えている。自学には向かない。というのも、右ページの問題を解きながら、左ページの解説のどの部分を見たらよいかがわからないからである。当然、教師の目からすると、問題ページの1番は解説ページのはじめに書いてある事柄が問われているのであり、見つけるのは容易い。しかし、生徒の目にはそのようにはうつらないかもしれないし、見つけるのに時間がかかればそれだけやる気もうせるものである。私は1ページに解説と練習問題が配置してあって、扱う文法事項は1つに絞るのがよいだろうと考えている。

中学文法に手こずる高校生たち

中3の先生がSVOの英語的語順すらわかっていない、と嘆く。日本語よろしくSOVで生徒たちが並べてくるのだという。しかし、事情は中3のみにとどまらず、そうした初歩的な英語的語順すらわかっていない中学生が高校に入学してくるのだから、当然ながら高校生にもそうした英語的なるものの初歩がわかっていない者が目につく。全体の場でそうした初歩から繰り返したところで、それまで3年間の英語教育を受けてきてそのレベルにいる生徒が、できるようになるということはまず起きない。改善の余地があるとすれば、個別指導。ここでやはり良心的な学習用教材が求められる。教材の開発が必要である所以である。